銀杏小道

「東京の大学」生の手帳

高校で「倫理」を学ぶ意義

今回取り上げたいのは、高校生の課程として存在する「倫理」という科目を学ぶことはどのような意義があるのか、という問いである。この科目は文系学生はセンターですら使ったことがなく、理系学生は、「倫理・政経」という科目で受ける人が多いため、あまり単体で勉強されることは少ないのではないだろうか?(これは私の周りの環境だけの可能性も高い感覚なので違っていたらごめんなさい)しかし、大学に入学してみるとこの科目をしっかり勉強しているかしていないかで様々な知識の体系化の効率や学びの深め方が俄然変わってくると感じた。

高校における「倫理」という科目

まず、高校の「倫理」という科目ではどのようなことを扱うのかということについて説明していきたいと思う。

「倫理」はおそらく高校の授業科目として含まれているとしても、センター対策的なところが多いのではないだろうか。少なくとも私の周りの環境はそうであった。しかし、私の所属していた高校はなぜか高校一年生の全生徒に対して週に2時間みっちり授業をする、なおかつ定期テストの出題形式は記述中心とかいう謎カリキュラムで、そのカリキュラムの恩恵をとても享受させていただいた。この科目は「倫理」と銘打ってはいるが、実態は思想史に近い部分があると個人的には感じている。高校一年生の時のカリキュラムでは、世界の部分についてのみ(要は日本思想は扱われなかった)扱われていたため、以下の記述はそれのみについてになるが、ギリシャ哲学から始まり、各種宗教の開祖者について、はたまた大陸合理論やらドイツ観念論やらを扱ったり、ハーバーマスの討議理論についてまでもが範囲である。もはや何が何だかわからなくなるくらい広範な範囲を有していると言えるだろう。高校のカリキュラムにおける「倫理」の定義とはなんなのか。もういっそ「思想史」に改名していただきたい。(楽しいからなんでもいい)

内容としては教科書・副教材たる資料集ともに各思想家について極力第三者的な視点に立って(相対化して)書かれているという特徴はあるものの、一通り勉強すれば、そして世界史などの歴史科目と結びつければかなり網羅的に思想史が学習できるようなものになっているのではないかと考えられる。ただし、法哲学とか政治哲学とかの分野の境界線に近いようなものは取り上げられにくい傾向がある気もしている(ケルゼンとかは取り上げられていない)また、政治学者等も取り上げられていない(そらそうか、という感じではあるが)

大学での勉強ー倫理と絡めて

次に、大学での学びを高校の「倫理」という科目と関連づけてみたい。大学の授業では、特に弊学においては、なんらかの学問分野について「網羅的に」授業が行われることはほぼない。教員の方々の専門分野に引き付けた狭い範囲を掘り下げたり、自説の提唱が多かったりする。それもそれで楽しい。しかし、その取り上げられる狭い範囲というものも大きな時代の流れがわかってこそのものである。

例えば、高校の世界史において、世紀ごとの世界地図が資料集の巻頭についているからこそ論述等においてマクロ・ミクロ双方の視点に即した書き方ができるのであり、これは大学の様々な文系科目においても、倫理という授業を通じて一通り教養の素地になるレベルまで叩き込まれたある思想の流れ、変遷がわかっているからこそ(授業によってはそのような定説が否定されるものもあるが、それこそ元の知識があってこそ)より深く理解できるというものである。従って、「倫理」という科目は文系学生にとってかなり重要だということもできる。

なぜ、理系ばかりが「倫理・政経」という形でのみセンター試験で利用するような科目に成り下がってしまったのだろうか。不思議な上に悲しい気持ちになる試験前の夜である。

「倫理」を大学から眺める

以上のように「倫理」という科目を言わば賛辞するかのような内容を書いてしまったわけだが、この記事では、別に「倫理」で学ぶ内容が全て世の中の真理であるから、大学の勉強がサボれるようになる、ということを言いたいのではない。「倫理」という科目は高校の授業になっているという性質上、おそらく最も無難な解釈や説明がなされていると思われる。いわゆる「教科書的には〜〜」みたいなアレである。従って、上でもさらっと触れたように大学の授業において異なった解釈であったり説明がなされることもある。だからと言って「倫理」の授業そのものが否定されるわけでもない。むしろ私は「倫理」という授業が軽視されがちであることに対して問題意識をここで提起したい。

最初のところで「倫理」は言わば思想史のようなものであると書いてしまったが、教科書の後半には生命倫理のようなより実生活・社会に即した記述も存在する。教養主義という言葉が昔あったようだが(中公新書でこれについて扱った本が存在する。面白いので是非手に取っていただきたい)、これは昨今失われて久しい。一方で、コンピュータリテラシーとかいう言葉にも代表されるように、倫理的な事柄について自らで考える力が求められるような時代になっていると言えるだろう。従って、教養「だけ」が重要とは言わないが、高校の「倫理」で扱うような基本的な事項については、文系・理系問わず現代社会において知識として持っておくべき最低限の事柄が多いように思われる。センター対策としての科目の性質を有することが多いのは致し方ないような気もするが、せめて文系であってもこれらの内容に触れる機会を、大学に進学する人だけではないことから鑑みてより積極的に取り入れていく必要があるのではないだろうか。

とはいうものの、高校までの教育の間に求められる教科の量と質が過剰すぎる気もしている。重要なのは事実なので、非力な子供は与えられる課程に対して精一杯取り組むしかないのかもしれないが、時代を追うにつれてどんどん大変になっていくのだろうか。