銀杏小道

「東京の大学」生の手帳

2020年雑感

2020年がもう終わってしまうらしい。いろいろあったしいろいろ考えたので、適当にまとめていきたいと思う。

コロナとのお付き合いの進展と努力のおやすみ

何よりもやはり今年はコロナウイルスに振り回された一年であったことは間違いない。コロナと言うものは、人をその周辺の人から隔離することで、人から受ける影響を削減する効果を持っていた。すなわちここにおいて、いかにこれまで人から影響を受けてきたかと言うことが明らかになったのである。例えば、これまでの大学生活では、「何もやっていない」と言いながら勉強する同期や先輩の姿を食堂で見かけて焦るみたいなことはままあったわけであるが、今年は、コロナで(特に春先から夏にかけては)自分という者のあり方が生身で自分に降りかかってくる経験をした。その中で、私個人はこれまでいかに自分が切迫感というものを糧に生きてきたかということを感じた。それで持って()、今年は途中自分へのおやすみを入れることにした。

努力というものは素晴らしいものだと思う。世の中のいう、努力馬鹿は間違っているという言説は私はそれこそ間違っていると思う。ただ、努力というものは、求める結果に対して常に真っ直ぐでなければ、その時に対しては意味がない。ただ同時に無駄な努力も受け止めることが肝要であるように思う。そして第一に、努力というものは自分がその努力に対して納得できているかが重要なのではないかと思ったコロナ時代であった。周りを見れば様々なことに努力をしている友人などなどがいる。しかし自分と他人は同じではない。自分は自分のしたいこと、なさねばならぬこと、に対して真っ直ぐ努力をしなければならないのであって、決して努力の模倣は努力ではないのだということをぼんやり考えられたいい機会であった。

SNSの役割

人に直接会うのが困難になり、SNSの役割が結構大きくなったように感じる。もともと別にSNSを毛嫌いしていたわけでもなく、ボチボチ共生していたわけだが、なんというか、SNSでの出会い(?)がオフラインの出会いとの比重と同程度になるというか、むしろ逆というか、必要以上にSNSというものが実生活に食い込んでくるのを感じた。

賛否はあると思うし、私は基本特にtwitterのようなものは実際に仲良い人とのコミュニケーションに使いつつ、あったことないが仲がいい人もそこで醸成することを別に避けないという使い方をしているので、そこまで感覚として何かが狂うことはなかったが、数年前と比較しても段違いに実名での議論のプラットフォームとしての役割が大きくなっていることにも多少の違和感は覚えたところであった。

人間関係のあれこれ

コロナでの大学生活は新入生と在学生でかなり異なっている。在学生は基本的に自分で動かなくても、自らが去年形成したコミュニティが維持できればそれで事足りる。一方で新入生は、自ら能動的に関わりを作らなければ孤独な大学生活が待っているにもかかわらず、それが非常に難しい環境が生まれていた。私は今年、2つの団体での運営と1つの新規参加を行ったが、やはり新規参加した方は、その団体の堅い性質上というところ以上に、新しく人と関わるという点において、今年の環境がかなり難しいものであることをひしひしと感じた。

今年が初めてのことだったからそう思うのかもしれない。来年以降もおそらくある程度人間関係がオンライン化されることは容易に想像ができる。来年以降はどうなっていくのだろうか。オフラインでの関係醸成が難しかった人々が、次に来る新入生に対して、どのような雰囲気で臨めるのかと言う点は少なからず影響を与えるのではないかと思うし、もしかしたら逆に、新入生に寄り添った人間関係づくりや団体運営ができるのかもしれない。今は何もわからないが、来年が正念場なのだろうと思う。

お勉強とコロナ

時代の変容に対して、人々の興味が移り変わるのはこれまで色々なことを勉強してくればそれなりに理解はできた。近代などの政治史はその頃の時世をかなり反映したものになっている。近年のポピュリズム に対する論調もこれと同じようなものかもしれないが、やはり今年は顕著に特に政治分野において、時世の影響というものを感じた。

流行りに乗る、というのはあまり好きではなく、むしろ逆張りこそ真理みたいな生き方をしてきた節がある。ただ、学問におけるこれまでの積み上げというものは、流行りに乗ってきたからこそみたいなところもあるわけだから、流行りにも真摯に臨まなければならないなと思った。

 

お昼なのに、一昨日までやっていた大会の疲れがまだ抜けず、頭が回らないのでこの辺で。