銀杏小道

「東京の大学」生の手帳

小田さくらさんのアイドル論について

私はハロープロジェクトのライトなファンをしている。その中でもこの数年は小田さくらさんを追いかけている。その、小田さくらさんが、先日以下のような記事を書き、相当な反応がファンの間から寄せられていた。

ameblo.jp

おそらく心で思っていることを文章にしたからだろうか、少々読みにくく、切り取って反論されているのを様々な媒体で何度も見た。少し誠実な読み方とともに、私の思ったことをネットの海に放流してみようと思う。

ハロプロファンとしての私

ブログについて言及する前に、自分がどのようにファンとしているかを書かないのはアンフェアだと思ったので一応記載しておく。私は(なぜか)アイドルという存在には、パフォーマンスをメインにしていて欲しいのと、画面の向こう側の存在でいて欲しいという謎の信条を持っているため、ライブは円盤を買うばかりで現場には行かないようにしている(我慢大事)。たまに円盤、生写真、写真集を買う程度である。これが別にメインストリームだとは思っていないし、ファンとしてあまり貢献できているわけでもないとは思うが、自分なりにこういうファンのあり方もいいかなと思っている。

ブログについて

高木さんの不祥事と今回のブログの内容

今回のブログは、juice=juiceの高木紗友希さんが、シンガーソングライターの優里との半同棲を報じられたことに対するハロプロメンバーへの動揺の一環であろう。ただ、他の人のブログ(例えば譜久村さんとかジュースのメンバーとか)と異なり、これは別に高木さんの不祥事に対する応答のみではないように思う。これまでのファンの反応がそこを決め打ちしてしまっているように感じた。

しかし、一方で全く無関係というわけではないし、自分のアイドル論の中に高木さんの事柄をはめ込んで考えている部分も存在することから、

なので、高木さんのように歌声という最大の武器を持ち合わせていた人ですら、戦えない事があるという現実に

 

音楽が1番大事ではなかったんだと感じた事が

すごく悲しかったです。

ここの読み方が非常に難しいブログになっていたと思う。個人的な見解としては、小田さんが抱いているアイドル論はハロプロの事務所側が考えるあり方ではないのは客観的に見た(恋愛が禁止とされている暗黙の了解が事務所の前提となっているように見える)事実であり、同時にハロプロが音楽を大事にしているのも事実であることを踏まえると、今後このようになって欲しいというような願望と、自分はそれに沿って活動を進めていくという決意の双方としか我々は捉えることができない。そう考えると、小田さんは高木さんの不祥事と今回のことは切り離して(少なくとも)ブログには記載した方がよかったのではないかなと思う。

ハロプロは、音楽を重視しているものの、同時にCDを握手会などとともに売っている。これがメンバーの意思ではないにせよ、現状がそうであるということそのものは変わらない。その枠組みの中であり方がはみ出たメンバーがいた場合、「こうすべき」という議論とは別に、現状の枠で活動していたその人自身が何某かの影響を受けるのは組織に属する人間であればどうしても免れ得ないことではないかと思う。

アイドル論とその当てはめの是非

また、今回のブログは、小田さくらさんの考えるアイドル論に対しても異論が集まっている。該当箇所は以下である

今回は女性アイドルについてになりますが

 

私の印象では

一世代前のアイドル全盛期

1970年代や80年代のアイドルの方々は

「歌」「飛び抜けたルックス」「スター性」などの武器を持ってアイドルをしていたように思います。

 

今は「女の子」そのものが武器になっている感覚です。

 

なので、男性に寄り添うような歌詞もとてもよく見ますし

身近な存在になりつつあります。

 まずは小田さんの主張をしっかり理解したい。恋愛御法度と、「女の子」を武器にしていることはまた種類が異なる。恋愛御法度で夢を売りながらも、その売り方の中心が、スキルだったりといったものだったのが変化しているという話なのだと思う。

ただ、ここでも同様に高木さんの案件に当てはめたことで読者に対して混乱をきたしているところはまあある。私もさすがに即日脱退は強すぎる対処だったという気持ちになったが、アイドルがコロナにおいて半同棲までをしていたというのを事務所が厳しく咎めるのは、スキルで売るか、「女の子」で売るかという問題と別問題であると思う。この点である程度ここに飛んでいる批判は的を射ていると思う。

アイドルとはなんなのか

そんな中でも

音楽を武器にしようとしているハロー!プロジェクトが私は大好きです。

(中略)

じゃあ私達がアイドルとして努力してきた歌やダンス、ダイエットなどは無駄なのでしょうか?

 

「アイドル」は音楽という娯楽の中にちゃんと属せているのでしょうか?

私が思う事は1つで、

アイドルが個性や音楽で評価される世の中になったら良いなぁと思います。

小田さくらさんはブログの中に自分の属するハロプロはこういうものであるという見解とそこから拡張したアイドル論を展開している。ここに対して握手会で売り上げをドーピングしていることなどをあげてこの見解を否定し、小田さくらが「自分の得意分野に逃げいているだけ」というような批判を見かけた。

「音楽を武器にしようとしている」ことは地上波への露出の仕方とハロプロがほかの国内のアイドルグループとの差異要因を考えれば事実のように個人的には感じる*1。また、おそらく先の引用箇所でいう「女の子」として売るというのは、「可愛いだけの?タレント」的な売り方みたいなのを漠然とイメージしているのではないかと感じた。というのは、「ダイエット」を努力として、売り出す要素に「飛び抜けたルックス」を挙げていることから、ルックスで売ること自体には異論はなく、どちらかというと、女の子「らしさ」のようなもので売ることに対して違和感を覚えている、と読むべきなのではないかと考えたからだ。

終わりに

以上を踏まえると、小田さんのブログは総じて、「女の子」ではなく、個性やスキルといったもので歌手など他のジャンルとの差異を持たすべきなのではないか、という従来から持っていたアイドル論を、今回の高木さんの騒動を踏まえて外に出してみたものということができるのではないか。またここにおいて彼女はハロプロが歌だけをメインに据えていると主張しているわけではなく、自分に対する捉え方がそこによっているだけのようにも思った。また、高木さんの事案の当てはめ方がわかりにくく、そして多少不適切なところもあり、我々読み手が困惑することになったのではないかと考えられる。

様々なことを書いてみたが、最も思うのは、アイドルだからといって永遠に自分の考えていることを表に一切出してはならない、という風潮を作ってはならないのではないかということだ。確かに小田さくらさんはこれまで、ある種アイドルは偶像として心情の吐露をそこまでしないことを信条としてきたような節を感じる。ただ、アメブロはネットという公の場の中でもある程度ファンに近い形で運用されており、その意見を出すことまで抑圧してしまうような風潮を作っている現状のファンの界隈はあまり喜ばれた話ではないように思った。

*1:武器にしようとしているというのは別にそれだけで売り出そうとしていることを意味しない

ひまつぶしとは何なのか

暇つぶしとは何なのか、これを昨日考えた。あ、あけましておめでとうございます。

我が家には、自粛期間中に購入した任天堂switchがある。(リングフィットアドベンチャーで運動不足解消に勤しんでいる)そして、家族のうちの一人はその中のスマブラにどハマりしているように私からは見受けられる。時間があれば、スマホをみるかスマブラをするかという生活を送っているのだ。

閑話休題。私は年始3日間、「何もしないぞ」と決めてだらだらと過ごした。1日のうち9時過ぎに起きて、ご飯を食べ、テレビを見て、ゲームをして、テレビを見て、(外出して)、ご飯を食べて、テレビとゲームをして、少し花札をして寝る、という生活である。ここで思ったのだ。暇は作るなのではないか、ということを。確かにこの3日間、暇であった。しかし今月末にはテストを控えているし、やろうと思えば、読まなければならない本もたくさんあるため勉強しなければならない環境にあるのだ。しかし暇であった。これは暇をないところから錬成したということなのではないか。となると、そもそも人間に「暇」という状況は原義上は起こり得ないのではないか。

スマブラをしている彼は「なぜそれにそこまでハマれるのか」ときいた所、「別にハマっているわけではない、そしてそこまで好きでもない。暇つぶしにちょうど良い」と言っていた。暇つぶしとは何なのか。わざわざ作った暇をつぶすとは何なのか。どうしたら暇は生まれるのだろうか。

わからないことが多いなと感じた今日この頃である。そんな私も今課題に追われている中で思い立ってブログを書いている。やはり暇というものは現実逃避と同義なのだろうか。

ところでひまつぶしはひつまぶしに見える。

2020年雑感

2020年がもう終わってしまうらしい。いろいろあったしいろいろ考えたので、適当にまとめていきたいと思う。

コロナとのお付き合いの進展と努力のおやすみ

何よりもやはり今年はコロナウイルスに振り回された一年であったことは間違いない。コロナと言うものは、人をその周辺の人から隔離することで、人から受ける影響を削減する効果を持っていた。すなわちここにおいて、いかにこれまで人から影響を受けてきたかと言うことが明らかになったのである。例えば、これまでの大学生活では、「何もやっていない」と言いながら勉強する同期や先輩の姿を食堂で見かけて焦るみたいなことはままあったわけであるが、今年は、コロナで(特に春先から夏にかけては)自分という者のあり方が生身で自分に降りかかってくる経験をした。その中で、私個人はこれまでいかに自分が切迫感というものを糧に生きてきたかということを感じた。それで持って()、今年は途中自分へのおやすみを入れることにした。

努力というものは素晴らしいものだと思う。世の中のいう、努力馬鹿は間違っているという言説は私はそれこそ間違っていると思う。ただ、努力というものは、求める結果に対して常に真っ直ぐでなければ、その時に対しては意味がない。ただ同時に無駄な努力も受け止めることが肝要であるように思う。そして第一に、努力というものは自分がその努力に対して納得できているかが重要なのではないかと思ったコロナ時代であった。周りを見れば様々なことに努力をしている友人などなどがいる。しかし自分と他人は同じではない。自分は自分のしたいこと、なさねばならぬこと、に対して真っ直ぐ努力をしなければならないのであって、決して努力の模倣は努力ではないのだということをぼんやり考えられたいい機会であった。

SNSの役割

人に直接会うのが困難になり、SNSの役割が結構大きくなったように感じる。もともと別にSNSを毛嫌いしていたわけでもなく、ボチボチ共生していたわけだが、なんというか、SNSでの出会い(?)がオフラインの出会いとの比重と同程度になるというか、むしろ逆というか、必要以上にSNSというものが実生活に食い込んでくるのを感じた。

賛否はあると思うし、私は基本特にtwitterのようなものは実際に仲良い人とのコミュニケーションに使いつつ、あったことないが仲がいい人もそこで醸成することを別に避けないという使い方をしているので、そこまで感覚として何かが狂うことはなかったが、数年前と比較しても段違いに実名での議論のプラットフォームとしての役割が大きくなっていることにも多少の違和感は覚えたところであった。

人間関係のあれこれ

コロナでの大学生活は新入生と在学生でかなり異なっている。在学生は基本的に自分で動かなくても、自らが去年形成したコミュニティが維持できればそれで事足りる。一方で新入生は、自ら能動的に関わりを作らなければ孤独な大学生活が待っているにもかかわらず、それが非常に難しい環境が生まれていた。私は今年、2つの団体での運営と1つの新規参加を行ったが、やはり新規参加した方は、その団体の堅い性質上というところ以上に、新しく人と関わるという点において、今年の環境がかなり難しいものであることをひしひしと感じた。

今年が初めてのことだったからそう思うのかもしれない。来年以降もおそらくある程度人間関係がオンライン化されることは容易に想像ができる。来年以降はどうなっていくのだろうか。オフラインでの関係醸成が難しかった人々が、次に来る新入生に対して、どのような雰囲気で臨めるのかと言う点は少なからず影響を与えるのではないかと思うし、もしかしたら逆に、新入生に寄り添った人間関係づくりや団体運営ができるのかもしれない。今は何もわからないが、来年が正念場なのだろうと思う。

お勉強とコロナ

時代の変容に対して、人々の興味が移り変わるのはこれまで色々なことを勉強してくればそれなりに理解はできた。近代などの政治史はその頃の時世をかなり反映したものになっている。近年のポピュリズム に対する論調もこれと同じようなものかもしれないが、やはり今年は顕著に特に政治分野において、時世の影響というものを感じた。

流行りに乗る、というのはあまり好きではなく、むしろ逆張りこそ真理みたいな生き方をしてきた節がある。ただ、学問におけるこれまでの積み上げというものは、流行りに乗ってきたからこそみたいなところもあるわけだから、流行りにも真摯に臨まなければならないなと思った。

 

お昼なのに、一昨日までやっていた大会の疲れがまだ抜けず、頭が回らないのでこの辺で。

魚焼きグリルから火が出たときの気持ち

魚焼きグリルが火を吹いた。私は鮭のハラミが大好きなのだが、これの脂分が多いからだろうか?魚焼きグリルで今日も食べようと思った時に火を吹いてしまった。初めてのことでかなりびっくりした上で、心が「危機」を感じていて、後から客観的に自分の心をみて面白かった。動揺しているので文章がめちゃくちゃだが、こういう時にどういう心境になるのか残しておくと良い気がするので残してみる。

事実経過
魚焼きグリルに鮭を入れる→国際政治についての動画を見ていた→気付いたら大きい音がする→気になってグリルを開ける→空気が入ったからかコンロの奥の方から台所の上に向かって火が昇ってくる

この流れである。

感情の流れ

お腹すいた→魚を焼くぞ→焼けている→なんか音が大きいぞ????→台所を見る

ここまではわかる。

 

何が起こっているかわからない→見てみよう→グリルを開ける
←どう考えても愚行である、普段の自分であれば空気が入るからやめとこくらいは考えるはずなのに開けてしまった。動揺していたようである。

 

グリルを開けたことで火が大きくなる→グリルを閉めずに呆然とする
←これもアホである。何が起きているのか全くわからずとりあえず6秒くらい眺めてしまった。

↓おそらく次の動きまでに5秒ほどかかっていたと思う

グリルを閉めたほうがいいことに気づきしめる→火が昇る→またよくわからず、かつほっときゃ大丈夫だろうと思い、呆然とする
←尤もアホである。台所の火事が家の火事の中でも多いことはわかっているはずなのに、私の家は大丈夫だろうという気持ちが働くらしい。面白い発見である。学問的に何か名称があるような心の動きなのかは知らない。

 

最終的に、空気を閉じ込めるのがいいのか、水をかければいいのか悩む(2秒程度)→もう火が昇ってしまっているから閉じ込めるのは私には無理と判断→おけに水を溜めて投げつける(2回で消火)
←後で調べてみたら閉じ込める方がいいらしいのだが、そのときの私には知識がなかった。また一つ学んだようである。

半年ぶりの更新のくせに危機的状況における心境の動きのようなめちゃくちゃなブログになってしまったが、面白かったので共有させていただこうと思う。

オンライン授業でレポートを書く修行・苦行

よく雨が降る季節になりました。前回の投稿からおよそ10日しか経っていませんが、オンラインで書くレポートが悲惨すぎて涙が出そうなので「ええいままよ!!」とブログを書くことにしました。書き殴り記事です。

オンライン授業の感想についてはこちらの記事をご覧ください。

 

yutas-first.hatenablog.jp

 

オンライン授業の課題

さて、まずどれくらいオンラインで書くレポートが悲惨か、の前に、現状オンライン授業でどのような課題が出ているか等を確認していきたいと思う。

基本的に、大学の単位は期末の試験 or レポートの評価で認定されることが多い。中には必修の科目とかで出席が得点につながることもあるが、これはもはや欠席したら負けの減点方式なので大体の人との差は試験・レポートでつくと見て良いだろう。
しかしながら、自粛解除の兆しが見え始めたとはいえ、大学の試験をオフラインでやることは極めて難しいと判断した大学側、そしてその判断を見越していた教員側がレポートでの評価をほとんどの全ての科目の評価軸に据えてきたのが現状である(一部言語科目等を除く)。つまり、試験3 : レポート1くらいの評価数でこのバランスを得意不得意に合わせて調整しながら履修登録をしてきた学生にとっては、全てレポートになってしまい、いわゆるコツコツ勉強しておいて悠々自適にテスト受験、とかそもそもあまり勉強せず浅漬け、みたいな勉強方法が通用しなくなってしまったわけである(レポートの方がおそらくどこまでも拘れるし、サボればサボるほど点数に直接響きやすい、と思う)。(これは教員側の負担も増えていて、試験は記述式とはいえ、問いがかなり明確に定まっていることから採点も基準をそれなりに設けることができるのか?レポートより楽だが、レポートにすると突拍子もない構成と内容にする学生がおそらく一定程度いたり、レポート特有の「若干の新規性・独自性」によって採点がかなり難しくなっているものと思われる。本当にありがとうございます、、、、、、)

加えて、大学側からお達しが出たのか、「レポートを数回程度に分けて評価しろ」みたいな感じの風潮ができ、あろうことか2~3回のレポートで評価、みたいなことが起こりやすい環境になってしまったため、学生側からすると、レポートを何本を抱えて授業を欝々と受けるという状況が生じてしまったわけである。

オンラインの状況におけるレポートの書き方

図書館がないという苦行

そんなこんなで、レポートを大量に抱えやすい状況なのだが、図書館が使えない状況におけるレポートがかなりきつい。そもそも学部1,2年生が受ける授業というものは自分が専門としているものではなく、いわゆる「一般教養」の授業も多いわけである。すなわち、授業で習った内容以外の部分に関して予備知識がほとんど入っていない科目も多い。本来その科目特有の予備知識みたいなものはレポートを書く前に、本を読んだり、読まなくても少し図書館をうろうろしてテーマを見つけたり、という作業が必要になるわけだが、自粛期間で大学も施設を開けていないということもあり、全くこの0段階目のレポートを書く作業ができない状況に追い込まれているのである。

「いやいや、ネットあるやん」という声も聞こえそうなところである。基本的にインターネットというものは、勉強する側からすると、便利な部分もあるが、あくまで「能動的に」リサーチを進めるのに適している媒体であると言える。授業内容以外ほとんど知識のない学部ひょろひょろ1,2年生が、さあレポートを書くぞ!となったときにどんなワードで調べれば必要な知識が手に入るのか、そもそも必要な知識は何か、ということを手に入れるのには適さない(ことが多い)環境なのだ。

その点図書館は、書架をグルグルすれば新書や文庫の手に取りやすいもの、教科書なども専門書と一緒に並んでいることから、その分野における予備知識や周辺知識を意図せずに多少受動的であったとしても「「「手軽に」」」手に入れやすい環境が整っていると言える。本を読むなら買えばいいじゃないか、という声も聞こえてきそうだが、そんなにやたらめったら本を買うのはきつかったり、そもそもどの本が適しているのかも選ぶ必要があることから、図書館よりは利便性が下がってしまうものである。

オンラインでレポートを書くことのメリット

ぐちぐちと愚痴を書いてきたわけだが、私なりにレポートを書いてみて気づいたオンラインにおけるレポートを書くメリットも存在する。それは「否が応でも英語論文に触れられる」である。上述の0段階目を多少なりともクリアした状況に限るが、本・論文集に図書館で触れる機会がほぼ0になっている以上、英語論文という情報の塊!のようなものにアクセスするしかない!という状況に追い込まれるのである。

そもそも、学術の世界で(おそらく)認められている文献の多くは英語であり、質・量ともに日本語文献は叶わないことも多い(かもしれない)。しかし、読みやすさ、図書館にあるという手に取りやすさ、などなどの理由から日本語文献を使うことがオフラインだと多いわけだが、オンラインにより英語文献と日本語文献の使い勝手が逆転する現象が起きている。日本語の論文集や本は、基本的に英語文献と異なり、オンライン化がほぼ全く進んでいないと言っても過言ではないほど進んでいない(実際は多少進んでいる)。英語論文は、私も理由についてはあまり知らないが、オンライン化がそこそこ進んでおり、コロナの影響で、オープンソース化がかなり大規模に行われている。従って、どのようなことについて書くか等々の段階を終えた後であれば、参照する研究は日本語よりむしろ英語のほうが学生にとってはとっつきやすいのである。

おわりに

そんなこんなで「ヒーヒー」言いながらレポートを今日も書いている。学生の皆さんと痛みを分かち合いたい。