銀杏小道

「東京の大学」生の手帳

大学受験とその後の勉強①

記念すべき記事1本目は、自分がそれなりに頑張った受験と通って気づいた大学生活、特に大学での勉学との関連性について考えていこうと思う。(需要があるかは知りません)

私は渋谷近辺にある某大学文系1年生なので、一般入試では、英語(リスニング有り)・国語(現古漢)・数学・世界史・地理、センターではこれに加えて理科基礎を用いた。どのような順で書くべきかも迷ったが、今回は無難に英数国に限ってみよう。

英語

これは英語が筆頭に挙げられる。むしろ大学受験時にもっと努力しておくべきだったと思うくらいである。まず、1年生段階において英語で論文・エッセイを書くことを求められる。これは授業に必要という意味で役にたつが、授業課題・評価に直接関わらない部分にも響いてくる。この筆頭が留学関連、そして日々のインプットであろう。留学については短期留学を想定しているが、TOEFLの点数などで大学受験の際に英語が得意だった人はあまり苦労しているようには見えない。ただ、苦労しているように見えないレベルのスコアを取っている人は英語が得意な人の中でもさらに限られると思われるので、大学受験で英語が得意だからと言って努力が必要なわけでは決してない。

日々のインプットという面では英語論文の読むスピードや海外ジャーナルに触れるハードルの低さがある。何かレポートや論考を書こうと思い立った際に、まず手っ取り早く触れるのはgoogle scholorやopac、ciniiなどを介した日本語文献なのだが、やはり英語文献の方が量も質も高いものが多いため、手を伸ばす必要がある。2000年の段階で世界に占める日本語論文の割合は7%ほどしかない。つまり、日本語論文でのみリサーチを図ると得られる情報量は相当限られてしまうのが現状なのである。また、大学に所属しているのであれば、所属大学等のデータベースを用いて英語論文が容易に入手できる環境が整いつつあるため、英語の方がむしろリサーチしやすいということも挙げられる。

さらに、より実生活に特化して考えた際にも、日経新聞など日本のジャーナルだけでなく、海外のメディアの記事が読めることは相当プラスに働くと考えられる。日本の媒体、特に日経などは英語圏の記事を邦訳して載せるということも行なっているが、限られた本数しかできておらず(そら当たり前だが)やはり直接英語のトップメディアに当たる方が賢明だ。

国語(現古漢)

現代文については文章を読む、その論理性を理解する、という点において重要なのは言わずもがな、であるが、意外と古文・漢文も役に立つものである。まず現代文から説明していく。

現代文は、(漢字を覚えること以外)基本的に文章を読めているか、理解できているか選択式か論述形式で問われるものである。そのため、日々の読書に加え、日本語の文章を論理構造を意識しながら精読する勉強が求められていると言える。これは日々の生活において本を読むときや、ブログを読むとき()、tweetを眺めるときに、その文章の趣旨を正確につかむこと、そして発信者となった際に自分の意見を的確に伝えることに必要である。そして、文章を正確に、はやく読めるかは、時間の有効活用に直接響いてくると、私は個人的に思っている。また、大学においては、論文の趣旨、授業のその回毎の主題を大づかみにできるかどうかが成績や何らかのタスクの質に関わってくるため、現代文の勉強はかなり重要である。(大学の授業は楽単でない限りは理解に苦しむものも多いため、まずその授業内容の大枠と中心を掴んでから枝葉に意識を向かせるような勉強方法があっているのではないかと個人的に考えている)

古文・漢文はまず面白い()。これは理由としては浅いかもしれないが、まあ事実である。面白い。一般教養として話の端々に出てくるものでもあるし単純に面白い。また、古い日本の文献、特に戦前の文書を読もうとする際には古文の知識、そして多少の漢文の知識があるに越したことはない。私は去年の秋、なぜか戦間期の日本の外交文書を読み漁る機会があったのだが(しんどかった、サークル活動の一環にせよ、読みにくいことこの上ないのでしんどかった)、古文・漢文の知識がないと、もしくはこの文章が古文・漢文の知識によって読めることがわかっていないと誤読してしまう表現が多く存在した。これらに限らず、生きている限り、もしくは勉強している限りにおいて古い日本語を読む機会がないとは言えないので勉強しておくに越したことはない。

数学

数学は大学受験レベルでいうと、高校数学範囲までの数学的知識と論理性の二つの側面があげられると思う。
数学的知識については、微分積分の基本的な考え方であったりベクトルの考え方は、まあ正味使う。例えば経済の勉強するにしろ微分の考え方は絶対に使う。ベクトルの考え方も会話の何らかのタイミングで必要になる。

次に、論理性について。これは現代文の勉強とかなり関連性がある。まず問題文が何を言いたいのか、求めているのか、という読み取りの段階、そして解答の方針が立った後で、それをいかに論理立ててかけるかという2つの面で数学を勉強すると思う(そもそも問題文が読めていないがために点数を落とす場合が存在するため、前者の観点からの論理性の強化も必要である)。後者についてが最も大学入学後に効いてくると思われるが、なぜかと言えば数式でないにせよ、大学入学後に何かを示したいとなった際に求められる論理性と高校数学の論理性は似ている部分があるからだ。高校数学、特に場合の数に代表されるような数式よりも文章による説明が必要とされる単元においては、考えた順番ではなく、示すべき結論に向けて最も合理的は順番で論証を行おうとする訓練が行える。これはレポートや、もしかしたらこのようなブログを書く上でも結論→論証方法の検討、といった形でかなり活きてくるし、今後の社会生活においてもきっと求められるスキルなのかなと思う。

 

 

ここまで書いてみて気づいたのだが、割と長いのに、中身としては極めて一般的なことしかない。まあでもこれは考えてみたら普通のことである。大学側は、大学入学後に必要であるから受験科目にするし、必要なことを入試問題として問うのである。受験勉強は将来に必要ないなどと発言する人はどの程度その言葉に責任が持てるのだろうか。

はじめに

ブログを書こうと思い立ったことは幾度かあるものの、それが実行に移されたことはほとんどないと言っていい。また、私は何かにつけてかなり3日坊主である。一度だけ開設したが、記事を3本書いてほったらかしになっているし、日記にしろ、お小遣い帳にしろ、継続性が必要となるという点で共通するトレーニングの類も全て長続きしない。特に日記については、あまり刺激的な生活を送ってこなかったせいか、数日経つと日記帳に書くべき事柄が思いつかなくなってしまい、放棄してしまう。

しかし、大学生というものは、社会人と比較して暇な時間が多いせいか、余計なことばかり考えるものであり、私もその例に漏れない。現に今回も試験勉強しなければならない日に限って、「ブログ開設をしよう」などというどうしようもないことを思いついてしまうものだ。

今回開設するブログがどの程度人に読まれ、どの程度継続するものなのかは記事を書き始めてみないとわからないが、「東京の大学」に通う量産型大学生の細々とした日記と備忘録として使うことができればいいな、と思う次第である。